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記事: コレクションは、手放すことで完成していく|生前整理で考えたい「残すもの」と「次の所有者」

コレクションは、手放すことで完成していく|生前整理で考えたい「残すもの」と「次の所有者」

コレクションは、手放すことで完成していく|生前整理で考えたい「残すもの」と「次の所有者」

コレクションは、手放すことで完成していく

生前整理と、最後に残すもの。

写真集の隣に建築の本があり、奥には古い椅子が一脚。壁には、名前を聞いたことのない作家の絵が掛かっている。

買取で伺った先で、こういう光景に出会うことがあります。

一見すると、バラバラです。

ところが、少し離れて全体を眺めると、あることに気づく。

筋が通っている。

年代が揃っているわけではありません。同じ作家でも、同じジャンルでもない。高価なものばかりでもありません。

その筋は、近づいて一点ずつ辿っていくと見えてきます。

戦後のある時期の建築雑誌があり、その近くには展覧会図録がある。棚を見ると同じ頃の写真集があり、部屋にはその時代につくられた家具が置かれている。

単体では別々のものです。

それでも見ていくうちに、この人は単に「建築」を集めていたわけではないのだと分かってくる。建築、写真、美術、デザイン。その境界にあるものを長いあいだ見ていたのかもしれない。

逆に、有名な作家の高価な本だからといって、それがコレクションの中心にあるとは限りません。

ほとんど値段のつかない小さな冊子や展覧会資料の方が、「なぜこの人はこれらを集めたのか」を教えてくれることもあります。

査定する側からすると、こういうコレクションを拝見する時間は面白いものです。

値段をつけるだけではない。その人が何十年もかけて作ってきたものを、こちらは逆方向から辿っているからです。

良いコレクターほど、手放している

本当に長くものを集めてきた方の記憶には、驚かされることがあります。

数百点、数千点。なかには一万点を超えるものを所有している方もいます。

すべてについて「いつ、いくらで買ったか」まで記録している人は、実際には一握りです。

ところが、よく覚えています。

正確な年月は曖昧でも、「あれはあの店で買った」「あの人から譲ってもらった」「ずっと探していて、ようやく見つけた」という記憶が残っている。

長い時間をかけて自分で選んだものだからでしょう。

そして、密度の高いコレクションを作っている人ほど、何でも持ち続けているわけではありません。

市場にほとんど現れない一冊を見つければ手に入れる。数年後、同じものがさらに良い状態で出てくれば、状態の良い方を残して以前のものは手放す。自分の集めている筋から外れてきたものも整理する。

これは、スポーツチームを作ることに少し似ています。

野球でもサッカーでも、選手を増やし続ければ強いチームになるわけではありません。

限られた枠のなかで誰を残すのか。どこを補強するのか。より良い選手が現れれば入れ替える。

そうやって何年もかけて、チーム全体の完成度を上げていく。

コレクションも同じです。

お金も場所も無限にあるなら、すべて持っていればいい。でも、ほとんどの人はそうではありません。

だから選ぶ。

良いコレクションは、増やし続けた結果というより、選別を繰り返した結果として残ったものです。

手放すこともまた、収集の一部です。

「高かったもの」と「今、高いもの」は違う

買取の現場では、「これは当時、とても高かった」という話をよく聞きます。

その記憶は、おそらく正しい。

ただ、購入価格と現在の市場価値は別です。

分かりやすいのが、かつて高額で販売されていた美術全集や文学全集です。

立派な装丁で、何十冊ものセットになり、購入した当時はかなりの金額だった。

ところが現在では、需要と供給の関係から、積極的に扱わない古書店も多くなっています。ものによっては値段がつかず、引き取ること自体が難しい場合もあります。

これは、その本に価値がなかったという話ではありません。

15年、20年前であれば、市場で普通に流通していたものもあります。

モノは同じなのに、市場が変わった。

世代も住宅事情も生活様式も変わります。情報の入手方法が変われば、欲しい人の数も変わる。

反対に、購入した当時にはそれほど評価されていなかったものが、数十年後に大きく評価されることもあります。

コレクションのすべてがプレミア化するわけではありません。上がるものもあれば、長く価値を保つものもあり、下がっていくものもあります。

「高く買った」という事実と、「今、高値である」という事実は別です。

売らなければならなくなってからでは、遅い

少し厳しい話です。

長くものを見ていると、お金が必要になり、最終的にコレクションを売却することになったケースも目にします。

このとき難しくなるのが、愛着と購入価格です。

長年探して手に入れた。高い金額を払った。大切に保管してきた。当然、簡単には手放せません。

さらに、購入した金額を知っているほど「この金額では売れない」と考えることもあります。

もう少し待てば高くなるのではないか。別の業者ならもっと高いのではないか。業者に売れば、そこからいくら利益を抜かれるのだろう。

いろいろなことを考えているうちに、時間だけが過ぎていく。

ただ、コレクションのすべてが、持ち続ければ値上がりするわけではありません。

数年前なら普通に売れたものが、今は売りにくくなっていることもある。値段が下がる以前に、買う人そのものが減っていくこともあります。

そして、本当にお金が必要になってから売ることになると、今度は時間を選べません。

時間を選べなければ、売る相手も選びにくくなる。結果として価格も選びにくくなります。

だから、コレクションには出口が必要です。

最初から売ることを考えて集める、という意味ではありません。

まだ時間があるうちに、「この先どうするか」を一度考えておく。それだけでも違います。

すべてを自分が買うことが、良い買取ではない

先ほど「業者に売れば利益を抜かれる」と書きました。

これは、その通りです。

私たちも商売なので、買い取ったものを同じ価格で販売するわけではありません。

査定し、保管し、撮影し、調べ、必要であれば修復する。そして適切な市場を探して、次の所有者へ渡す。そこには費用も時間もかかりますし、商売として利益も必要です。

ただ、何でも自分たちが買えばいいとは考えていません。

自分たちが買うことが、本当にそのものにとって適切なのか。

私たちより、その分野を深く扱っている人がいるなら、そちらへ相談した方がいい場合もあります。

別の市場へ持っていった方が評価されるものもある。今は売らない方がいいものもある。

「いくらで買うか」と同じくらい、「これは自分が買うべきものなのか」を判断する。

ここを間違えてはいけないと思っています。

直感とは、蓄積された観察なのかもしれない

私は30年以上、さまざまなものを見てきました。

本から始まり、家具、美術、プロダクト、写真、紙もの。

専門分野のものを見ると、ときどき先のことが感覚的に見えることがあります。

これはまだ残る。

これは今が高値だ。

これはもう少し先まで価値を保つ。

これはこれから難しくなる。

そういう判断を「直感」と呼ぶことがあります。

ただ、私は直感という言葉には少し半信半疑です。

何の根拠もなく、突然答えが降りてくるわけではないからです。

30年以上ものを見ていれば、頭の中には相当な量の観察が残っています。

何が売れたか。何が残ったか。当時は誰も見向きもしなかったものが、なぜ後から評価されたのか。反対に、誰もが欲しがったものが、なぜ売れなくなったのか。

一つひとつを表にして記録してきたわけではありません。

でも、見続けたものは残っている。

直感とは、長い時間をかけて蓄積された観察が、言葉になる前に出した結論なのではないか。

最近は、そんなふうに考えています。

そして結局、ものを見る仕事で重要なのは「私はそう思う」で終わらせないことです。

なぜそう感じたのか。どこを見たのか。何と比較したのか。

それをどこまで言葉にできるか。

そこが勝負だと思っています。

本を見ていると、家具や絵につながっていく

古書の買取でお宅へ伺ったとき、「絵画や家具も見られます」と伝えることがあります。

すると、ときどき怪しまれます。

これは無理もない。

本の買取に来た人間が、家具も見ます、絵も見ますと言えば、「何でも買い叩く業者じゃないのか」と思われても不思議ではありません。

だから無理には勧めません。

ただ、信頼して任せていただいた場合には、本以外のものも拝見します。

そこで家具や絵について話すと、驚かれることがあります。

私の中では、本と家具と美術は、それほど離れたものではありません。

本を見ていると家具につながる。家具から建築へ行き、建築を追うと写真が出てくる。写真から美術へ行き、美術からグラフィックへ行って、また本へ戻ってくる。

文化というものは、最初から「古書」「家具」「美術」という売場ごとに分かれて存在しているわけではありません。

市場が売買しやすいように分けているだけです。

だから、一人のコレクターが本と家具と写真と美術品を持っていても、私にはそれほど不思議には見えません。

見るのはジャンルよりも、その間にどんな文脈が通っているのか。

最初に書いた「筋」とは、そういうものです。

コレクションの生前整理で失ってはいけないもの

生前整理というと、「不要なものを処分する」というイメージがあります。

コレクションの場合は、少し違うと思っています。

所有者本人にしかできない判断を、本人ができるうちにしておくこと。

所有者がいるうちなら、なぜ買ったのかを聞けます。

どこで買ったのか。誰から譲り受けたのか。なぜこれだけは長く残してきたのか。

そして本人が、残すのか、売るのか、誰かに譲るのか、寄贈するのかを決められる。

ところが遺品になった瞬間、その多くが分からなくなります。

家族であっても、価値を知っているとは限りません。

有名作家の作品や、高額で購入したものなら分かるかもしれない。

しかし、コレクションの文脈を作っているのは高価なものだけではありません。

一冊の小さな冊子。展覧会の案内状。古い写真。名前の知られていない作家の作品。

それ自体には大きな市場価値がなくても、ほかのものと結びつくことで意味を持っている場合があります。

所有者がいなくなると、その関係まで切れてしまう。

残るのは、モノだけです。

運が良ければ、それを理解できる誰かの目に留まり、市場へ戻る。

そうでなければ、「古いもの」「よく分からないもの」「場所を取るもの」として廃棄される。

実際に、そういうことは起きています。

だから、生前整理は死ぬ準備というより、自分のコレクションを自分でもう一度見直す時間と考えた方がいい。

何を残すのか。そして、何を次へ渡すのか。

その判断を本人ができることに意味があります。

次の所有者まで考える

では、誰に相談すればいいのか。

最近は、街中にも大手の買取店が増えました。気軽に持ち込める場所が増えたこと自体には意味があります。

ただ、専門性の高いコレクションは話が別です。

これは本だけではありません。車でも、時計でも、家具でも、美術でも同じです。

その筋の専門家が知っているのは、現在の相場だけではありません。

誰が探しているのか。どこへ持っていけば評価されるのか。国内なのか海外なのか。専門店なのかオークションなのか。

あるいは、今は動かさない方がいいのか。

その「次」を知っています。

インターネットの発達によって、ものの行き先もずいぶん広がりました。

以前なら、その地域で需要がなくなれば市場から消えていたものでも、今は違います。

福岡では探している人がいなくても、東京にはいるかもしれない。日本にはいなくても、海外にはいるかもしれません。

翻訳、決済、物流の壁がさらに低くなれば、この動きはもっと進むはずです。

これからコレクションを整理するとき、「これはいくらになるのか」だけを考えるのでは足りません。

「これは、次にどこへ行くべきなのか」。

専門家に任せる意味は、査定額だけではありません。その行き先を知っていることにもあります。

手放すところまで、自分で選ぶ

コレクションを始めたとき、最後のことまで考える人はほとんどいません。

欲しいものを見つけ、手に入れ、また次を探す。

そうして10年、20年、30年と時間が経つ。

振り返ったとき、そこにあるのは単なる物量ではありません。

一つひとつに、その人が選んできた時間があります。

だからこそ、手放すところまで自分で選ぶ。

すべてを残す必要はありません。すべてを売る必要もありません。

集めることと手放すことは、反対の行為ではない。どちらも「選ぶ」ことの一部です。

そして、手放したあとに何が残ったかによって、そのコレクションの輪郭はむしろはっきりしていく。

コレクションは、所有した数では完成しません。

何を選び、何を残し、何を次へ渡したか。

最後に残ったものに、その人の筋が通っている。

それが、美しいコレクションです。


この記事について

本記事は、選品舎/Helvetica を運営する大西健が執筆しています。
ヴィンテージ家具・古書の選品、販売、記録を通じて、
「残るもの/残らないもの」の判断基準を実務の中で整理しています。


ブログは、ふたつの棚に分かれています。

いまの気分に近いほうから、お進みください。

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