引き受けるか、見送るか ── 売れないソファと、価値の話
あるとき、40年前のソファを引き取ってほしいという相談が届いた。
アルフレックス社のものだった。
モノとしての時間も、造形も、持ち主の思い出も、それなりに含んでいる──はずだった。
でも、迷った。
売れないものを、どう扱うべきなのか。
選ぶということは、同時に、見送るということでもある。
今日は、その記録を静かに残しておく。
連絡は、ある朝のことだった
「古いソファがあるんです。よかったら、引き取ってもらえませんか?」
丁寧な文面だった。
添えられていた写真には、40年ほど前のアルフレックスのソファ。
かつては主役だったのだろう。
部屋の中心で、誰かの時間を支えていたはずだ。
ソファの座面はやや沈み、革には乾きがあった。
脚部には小さな傷。けれど全体としての佇まいには、ある種の誠実さが宿っていた。
ヤフオクでは、1万円でも売れない
調べた。
型番も素材も、ある程度は把握できた。
でも、ヤフオクでは似たモデルが 1万円でも落札されていない。
発送コストを含めれば、赤字は確実だった。
店舗で扱えば場所を取り、修復すれば予算が出る。
つまり── 商品としては、成立しない。
数字だけを見れば、「断る」が最適解だった。
でも、値打ちはある気がした
それでも、ふと手が止まる。
このソファには、何かが宿っている気がする。
作られた時代、使われた部屋、送られてきたその文面。
すべてが、何かを「残そう」としていた。
金銭的な価値はない。けれど、値打ちはある。
──このとき初めて、「選品舎」という名前を思い出した。
商いの中にある、選びと見送り
選ぶとは、引き受けること。
けれど、本当の選びには「見送ること」も含まれている。
買い取らず、ただ見送る。
その判断にも、商いの思想が宿るべきだと私は思っている。
思いを受け止めながら、引き受けない。
残されたものを前にして、「これは受け止めきれない」と判断することも、選ぶことのひとつの形だ。
静かに残すという、もうひとつの応答
結果として、そのソファは引き取らなかった。
でも、そこで終わりにはしない。
「選ばなかった記録」もまた、商いの一部だからだ。
こうして文章にして残すことで、引き取らなかったソファの「値打ち」だけは、少しだけ救い上げることができた気がする。
選ぶことの中に、見送ることがある。
受け取らなかったモノにも、敬意を。
それが、私の商いの静かな基準でありたい。