コンテンツへスキップ

カート

カートが空です

記事: 倉俣史朗《Melody in F》をめぐって──プロダクトが渡っていく系譜

倉俣史朗《Melody in F》をめぐって──プロダクトが渡っていく系譜

倉俣史朗《Melody in F》をめぐって──プロダクトが渡っていく系譜

ブログには、ふたつの種類があります。
目的や気分にあわせて、お好きなほうをお選びください。

1987年にデザインされた倉俣史朗の《Melody in F》という小さなテーブルが、昨年クリスティーズのオークションに出品されていた。落札額は8万8,200ユーロ──当初の予想を大きく超えて記録されたことを、ニュースのように眺めた。

どこで誌面に載っていたのか、はっきりした記憶はない。ただ、そのテーブルの存在を目にしたとき、私は「プロダクトが渡っていく」という系譜について考えていた。


デザインがアートへ接続する瞬間

倉俣のテーブルは、もともと実用家具として設計されたものだ。しかし、ユニークピースに近い存在は、ときに「唯一性」と「物語性」で評価され、美術品市場へと接続していく。
デザインプロダクトがアートと同じ場で競り落とされる──それは、プロダクトの宿命が「使用」から「記録」へと移行する瞬間でもある。

1980年代の前衛的なデザインが、数十年を経て美術品として再評価される。その現象は、時代を超えて価値が組み替えられることを雄弁に語っている。


商いと循環

私は、古書もヴィンテージ家具も「非売」という札をつけずに扱ってきた。どれほど希少であっても、最終的には誰かの手に渡っていくことを前提にしている。

本も家具も、自分のもとから離れていくたびに、どこかで新しい記録や価値を生み出す。倉俣のテーブルもまた、誰かの空間を経て、市場を経て、次の人の元へと渡っていったのだろう。

モノは止まらない。持ち続けることよりも、手を離したあとにどう循環していくか。その流れにこそ、美があるように思う。


所有は一時のこと

書物も家具も、集めるときには熱を帯びている。しかし、所有は一時のことにすぎない。大切なのは、どのような眼でそれを見送り、どのように記録するかだ。

私が選ぶものは、最終的に誰かの手へと渡っていく。渡った先で再び新しい時間を重ね、その物語を更新していく。その営みは、単なる売買以上に「文化の循環」と呼ぶべきものだ。

👉 関連記事:
売り抜けるという選択|不動産・株・家具に共通する出口戦略と暮らしの美学


あとがきにかえて

倉俣のテーブルを見送ったオークションのページを閉じながら、私は自分の書棚を思い出した。売ってきた本の数々──そのすべてが、今もどこかの棚で新しい意味を宿しているはずだ。

ものが残るのではない。
価値を見出した人間がいて、渡した人間がいたから、残り続けていくのだ。


読みものを楽しむ:

静けさのなかにある商いの気配

この記録を読む

古都と港町──神戸にみる文化の循環とデザインの行方
モノを超えて

古都と港町──神戸にみる文化の循環とデザインの行方

港の空に、巨大な魚が跳ね上がる。フランク・O・ゲーリーが手がけた《フィッシュ・ダンス》は、神戸の街に不意に現れる異国の夢のようだ。その建築を見上げるたびに思う──神戸という都市は、ただ残すのではなく、巡らせてきた街なのだと。 東京は、日本の文化の中心であり続けている。政治も経済も、情報の発信も、多くは東京を起点として流れていく。しかし文化の源流を辿れば、京都や神戸といった都市が浮かび上がる。...

もっと見る
アントニオ・チッテリオと坂田和實「不道具」──美しさと市場価値の違い
残るものを選ぶ

アントニオ・チッテリオと坂田和實「不道具」──美しさと市場価値の違い

ブログには、ふたつの種類があります。目的や気分にあわせて、お好きなほうをお選びください。 選品手帖 | 選ぶ理由があるモノたちへ  モノを超えて | 静けさと、商いの記録ここに綴るのは、後者に近いお話です。 記号になるかで価値は変わる 美しいかどうかは、あくまで個人の価値観だ。しかし「記号」になるかどうかで、市場における価値は大きく変わる。 ここでいう記号とは、デザイナー名やブラン...

もっと見る